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2012.12.11,Tue
いままでを振り返って、最も政治に関しての考えが保守的だったのは大学受験を控えた高2,3の頃だろう。と言っても、その時には自分が保守的だなんて全然認識してなくて、ごくニュートラルだと思ってた。

表面的な思考には表れなかったけど、たぶん、あの頃の自分の思想を貫いていたのは「自信の無さ」だと思う。成績は同じ大学の志望者と比べたら負ける感じだったし、でも悩んでばかりもいられないということで、何か心のヨルベを求めていた。誇れるものが欲しかった。これを解決する方法は大きく分けて2つで、一方は「頑張って、誇れるものを獲得する」ことで、もう一方は「既に所持しているものを誇る」こと。僕は安易なことに後者を選んだ。

後者の道を進んだ人で、何も誇るものを見つけられなかったという人は殆どいないと思う。というのは、それほどまでに人の心は弱いからだ。地面に支えられなければ立つことが出来ないように、何か1つだけでも、自分を支えるものは必要になる。それが昔は宗教だったりしたんだけど、今日の宗教は生を支えるためには機能しないスピリチュアルな存在に成り果てているし、あまり用いる人は多くない(いないというわけでもないけど)。しかし、こうしてどこにも拠り所を見つけられなかったとしても、つまり社会に自分の存在を悉く否定されたとしても、生きている人間がただ一つだけ否定できないのはいま自分が生きているという事実で、そのために「自分の生まれ」は拠り所に成りうる。逆に言えば、出自を拠り所にしている人というのは、かなりギリギリの心で生きている人だ。

僕が幸いだったのは、誇れるもの探しで「生まれ」まで遡る必要が無かったということ。僕が自分の支えにしようとしたものは周りから見たら大したものではなく、そんなので満足するなんてユルい頭の持ち主だと思われていたかもしれないけど(実際にユルユルだし)、僕自身の拠り所としては機能したのでまぁ良かったんじゃないかなと思う。ここで「生まれ」まで遡る必要があったとしたら「頑張って、誇れるものを獲得する」道に進まない限りは拠り所を見つけられないため、ずっとずっと出自にこだわり続けて思考が硬化していただろう。

いま世の中には「生まれ」以外に心休められる場所を持っていない人がとても多いように見える。これは、誇れるもの探しをしたけど見つからなかった結果なんじゃないかな。景気の悪さが「他人を出し抜こう」という気持ちを過剰に助長して、その結果として出し抜かれる人を生み出し、そうした拠り所を失ってしまった人がナショナリズムに走るように思える。

ただ、僕はいま「頑張って、誇れるものを獲得する」ことと「既に所持しているものを誇る」こと、この内どちらかに解があるとは思っていなくて、そもそも何かを誇ろうとすることそれ自体が馬鹿らしいことなんじゃないかと感じる。「努力しながら生きてもいいし、努力せずに生きてもいい」環境、生が保証がされている環境。これが実現されたらいいなと現時点の僕は思ってる。
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