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2013.01.17,Thu
『暇と退屈の倫理学』という本を読んだ。

そこそこ厚い単行本だけど示される結論はシンプル。この結論を言うだけであれば、350を超えるページ数、文章量はおそらく必要なかったと思う。だけど、この本の厚さは意図的なものだ。理解や真理についてのスピノザの考えを引用したのち、こう述べている。

   ――だから大切なのは理解する過程である。そうした過程が人に、理解する術を、ひいては生きる術を獲得させるのだ。

この本に示されているのは、暇と退屈の倫理学の「答え」ではなく「(著者・國分功一郎氏による)実践」である。國分氏は主題として読者の「環世界」に異物を投げ込み、異物について思考せざるをえない状況を作る。読者はページを繰ることでこの思考を実践し、そして読み終えるくらいになると主題は読者の「環世界」において異物ではなくなる。これは、理解に対する知行合一的な態度を重視するために理解(知)の実践(行)としてページをたっぷりと使い、読者に暇と退屈の倫理学を体験させようとしたということだろう。

こういった手法をまどろっこしいと感じる人、あるいは正しい知識(=答え)を得てから実践に移りたいという人もいるだろうし、好き嫌いが分かれる本かもしれないなとは思った。僕はこういったやり方が結構好きだ。好みというか、単に自分が想定している「理解の型」に合致してるだけだろうけどね。

結論のひとつである「贅沢を取り戻す」というのは、言葉面だけを見ると自分にはちょっと受け入れがたいことだ。まだ読んでないんだけど、部屋の棚にある『簡素な生活』とかいう本は何らかのヒントを与えてくれそうな予感がしているし、他には鈴木大拙なんかも居て、とにかく生活に関しては「つつしむ系」の考え方が僕の中では優勢である。

ただ、同じく「つつしむ系」であるエピクロスのことを考えると、ちょっと状況が変わる。エピクロスは精神的な静穏(アタラクシア)を求め、その静的な快楽主義の基本として「胃袋の快」を据えた。この「胃袋の快」とはパンと水だけで満足するような生活のこと、つまり必要以上にものを求めないということで、仏教でいうところの貪欲(とんよく)なんかと関係する。

エピクロスの考え方もまた「贅沢を取り戻す」とはおそらく相容れない考え方なんだけど、なぜこれにより状況が変わるのかというと、エピクロスの本を読んだことが無いからだ。ずっと探してるんだけど……。この「ずっと探してる」のがポイントで、通販で注文すればすぐにそれが手に入るのにも関わらず、僕は「本はできるだけ本屋で買う」という信念めいた何かに基づいて通販を使わず、あちこち書店を探し回っている(たまには通販も使うからこの信念めいた何かは「決断」ではない)。ここにおいてエピクロスの本は僕の「欲望の対象」ではあるけれど「欲望の原因」ではなくなっていて、僕は退屈しのぎに本を探し回っていることになる。そして、これは明らかな時間の「浪費」だ。

いや、時間は観念であるから、これも「消費」なのかもしれない。しかし、通販という合理的な装置を使うことで発生する暇と退屈を回避していることに違いはなく、僕は非合理的な行動によって退屈だけどそこそこ楽しい時間、つまり退屈の第二形式の中に身を置くことを期せずして達成出来ているんじゃないか。

このようにしてエピクロスの思想内容とは全く関係ないところで低次な暇と退屈の倫理学が顔を覗かせた。バカバカしいし、ちゃんと本も読めって感じだけど、これがいまの僕の暇と退屈の倫理学なんだと思う。
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