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2017.04.02,Sun
高速道路を走っていると、山あいの土地に家々が連なっている様子を目にして「こんな場所にも人が住んでるんだな」などと思うことがある。ああいう感じのところに引っ越してきた。

いちおう神戸市内であるし、そう述べるのはややオーバーかもしれないけど、まぁなんというか栄えてはいない。お店が無ければ農作地も無く、様々な点において枯れており、そして坂道と階段にまみれた住宅街だ。


神戸市は、海沿いの南のほうに市街地が広がっていて、そこから北のほうに行くにつれ標高が高くなり、摩耶山や菊水山などのいわゆる六甲山地へと繋がっている。うちは市街地からやや北に離れており、家から市街地に向かうぶんは下り坂だからいいんだけど、市街地から帰宅するのは延々と上り勾配で中々骨が折れる。買い物とかで荷物がいっぱいの状態では尚更である。

だから、市街地から出ている循環バスを使って坂道を上り下りするのが、このあたりの住人の定石だ(と、物件の内覧時に不動産会社の営業さんが教えてくれた。まさに丁度うちの近辺ご出身とのことだった)。

もう既に何回か、そのバスを利用した。バスに乗ると、明らかに意識せざるを得ないのが「ご年配の方が多すぎでは???」「若い人全然いないのでは?????」ということ。それもそのはずで、平成27年度の国勢調査によると僕が移ってきた町は、人口の半数近くが65歳以上とのことだ。同年度の国勢調査では全国総人口のうち65歳以上の割合は26.6%とあるから、それに比べてだいぶ高い数値になっている。

ちなみに最新の人口統計(平成28年10月確定値)では全国における65歳以上の割合は27.3%にまで上昇している。すごい。



坂道ばかりで、玄関にたどり着くために70段ほど階段を上る必要があり、標高がそれなりなので冬は寒く、近くにコンビニとかスーパーとか娯楽施設みたいなのは無くて、その代わりに家賃や初期費用は安いですよ的な感じで紹介された物件だった。逆だったかな? 安いけどこういう事情がございまして、的な。

どちらにせよ、たまたま僕は坂道や階段が好きで、寒いのはむしろ歓迎だし、コンビニやスーパーが遠いのは少し不便だけど娯楽施設は無いほうが静かで望ましいくらいだから、そのうえ家賃まで安いとなれば個人的には至れり尽くせり級の物件だったので住むことにした。

ただ全然そんなつもりじゃなかったのに、引っ越しが年度の変わり目、すなわち引っ越し業界の繁忙期にぶち当たってしまったので、べらぼうに引っ越し代が高くついた。冷蔵庫とかを買おうとしていた分のお金が飛んでいった。

そんなこんなで職なし・金なし・冷蔵庫などの家財なしというスタートなんだけど、まぁどうにかやっていくと思う。ちょっと最初だけは頑張らないといけなさそうだけど、いちど基盤さえ出来てしまえばこれまでよりずっと自由度の高い生活が可能だし(家賃が安いので)、浮いた時間やお金をいい感じに使えたら嬉しい。
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2017.02.17,Fri
ウッウッ、もうほとんど春ですね。「冬を返せ!!!」って叫びながら泣いてる。泣いてない。


引っ越しに向けて諸々を進めている。兵庫の山あいに引っ越すつもりで、こないだは物件の内覧に行ってきた。

夜行の高速バスによる東京との往復は、やや厳しかった。あんまり交通費を出せなかったゆえに夜行の高速バスを選択したんだけど、車内がぎゅうぎゅう詰めで(4列シートだったためでもある)余裕が無く、なにより閉めきったカーテンで窓の外を見られないのがつらい。

べつに景色は見られなくても構わないから、並走している他の車とか、そういうのでも見ていたい。でないと「いま、移動している」という実感がない。消灯しちゃうから本を読んだりタブレットをいじったりも出来ないし、ほとんど必然的に眠ることになる。

「池袋で乗り、眠っていたら着いた」という点で、東上線直通の有楽町線や副都心線で寝過ごして新河岸などに着いてしまうのと同じ感覚で、いつのまにか三宮に到着した。いつのまにかと言っても相当長く感じたけど。500キロ以上の道程が「いつのまにか」で終わってしまうのは何だか味気ない。


散歩と読書は似ている、と思ったことがある。足を動かすか、ページを繰るかという違いこそあれ、どちらも情報との連続的な邂逅だ。考え事をする際に外をぶらぶら出歩くという人は多いし(僕もそのひとりだ)、たとえば京都には西田幾多郎らが好んだといわれる「哲学の道」なんてものもあったりする。散歩でも読書でも、道程にて出くわす情報たちが触媒となり面白い反応を得られることがあって、それは散歩や読書の魅力というか、醍醐味のひとつだと思う。

電車やバスでの移動は、自分が足を動かさなくとも景色が変わっていくから読書というよりは映画鑑賞とかに近いんだけど、ともかく、あれも情報との連続的な邂逅といえる。だから青春18きっぷでの鈍行はとても楽しいし、長時間の移動でも、ひとが言うほどつらいとは感じない。それに比べて夜行の高速バスは、同じ光景・同じページだけを長時間にわたって見続けるという体験なので、かなり修行っぽい。

とはいえ長距離を安く移動できることは事実なので、移動することそれ自体が目的でない、単なる移動の際にはこれからも使う機会があるかもしれない。とりあえず、次回があるとしたら多少割高になっても3列独立シートのバスを利用しようと思った。座席を広くして、修行レベルをハードからノーマルくらいには変えたい。


きょうは図書館で分類記号75、すなわち「工芸」の書架で本を探していたら、6歳くらいだろうか、やんちゃそうな男の子が近くにやってきた。小脇には子ども向けのミステリー小説(?)とサッカーの本を抱えていた。男の子も僕と同じく「工芸」の書架をじっと眺め始めたので、心のなかで「うんうん、そうやって自分の興味が湧いたものを何でも好きに楽しんだらいいよ」と念じた。焼き物かな、染め物かな、それとも木工かな、いったい何を読むんだろうとちょっと気にしながら見ていたら、男の子は折り紙の本を手にして満足そうに去っていった。なるほど、と思った。
2016.12.24,Sat
青春18きっぷを使い、旅行をしてきた。


初日に、東京の自宅から和歌山まで一気にワープした。ひとくちに和歌山と言っても広いけど、和歌山駅です(隣接している大阪府からそこそこ近い)。ダイヤ乱れなどもあったため到着は夜遅くで、所要時間は12〜13時間ほど。

これだけ時間が掛かるという事実が、もしくは時間を掛けるという手続きが、ふだん過ごしている場所との距離的な隔たりを強調してくれる。仮に30分で着いてしまうなら「遠くまで来た」という実感が湧かないし、すぐに行けるということは、すぐに戻れるということでもあって、日常から切り離された感覚を得られない。


しかしながら、今回の旅行中に思いを馳せたのは「非日常/日常」「ハレ/ケ」といった表裏一体の関係にではなく、「近景/遠景」の関係についてだった。つまり、同じ時間・同じ状態・同じ場所でも、観測者の視座によって近景にも遠景にも成り得るような関係。

長距離の移動によって、いつも遠景として見えているものに近付くと、それは近景になる。反対に、近景だったものは遠景になる。また、ある景色は遠景よりもさらに向こうの見えない位置に追いやられるし、見えなかった景色が視界に現れる。


近景と遠景の力関係はイコールではない。近景は、遠景を「遮る」という機能を持っているぶん優先される立場にある。遠景の一部を注目して眺めようとしても、その遠景と自分の目との間に近景が差し込まれれば、たちまちその遠景は見えなくなってしまう。

僕の場合、いまの仕事(気が進まないけど仕方なくこなしているだけの仕事だ)が近景として立ち現れる。あるいは近景として遠景を遮る。考え事をしていても、読書していても、遊んでいても、ぼーっとしていても、眠っていても、だ。何をしていても仕事のことが不意に頭に浮かんできてしまうから、そうすると我に帰るというか、むしろ我に「帰れない」というか。

こんな感じで、ふだんの生活のなかでもっとよく遠景を眺めたいのに近景に邪魔されてしまって見えなかったり、見ることに集中できなかったりということがしばしば起こる。だから今回の旅行では近景/遠景の関係性を変化させたかったのだ。遠景に置いている間は仕事も思考を脅かさない。


よく、視力低下の原因として本やゲーム、パソコンの画面などの見過ぎ・やり過ぎなどが(槍玉に)挙げられる。逆に、緑を眺めることが視力回復に繋がるなんて主張もある。でも個人的にはこれら自体が視力を上げ下げさせる力を持っているとは思ってなくて、単に、同じ距離にあるものばかり見ていると目のピント調節をするための筋肉が衰えたり凝り固まったりするだけの話だと考えてる。もちろん、一因であって原因のすべてではないにしろ……。

乱暴な意見だけど、比喩的な意味も含め、現代では多くのひとが近視眼的であることに慣らされているというか、同じ距離にあるものばかり見ているように、そして目が悪くなっているように感じる。生活するうえで「余計なもの」が視界に入らないように、惑わされないようにという点ではむしろ進化と捉えることもできるけど、でもやっぱり見えるに越したことはないはずだ(説得力不足)。

近視眼的になってしまうこと自体は避けにくいのかもしれない。国が、社会が、身の回りが、「ふつう」とか「当たり前」とか「健全」とする生き方がワーカホリック的なのだから。僕は社会が言うところの真人間ではないので、旅行をして考え事などにふける時間も取れる(そのぶん収入などは少ない)けど、真面目に生活をしているひとのなかには、そうした時間を取れないひともたくさんいると思う。つねに月曜日のことを考えながら日曜日を過ごすような、すなわち日曜日を独立した余暇としてではなく平日のための休日として過ごすような、busy-nessにつきまとわれた生活を送るひと。その休日さえ無いひとだっているくらいだ。


色々な場所があり、色々な人がいて、色々な生活がある。近景ばかり見ているとそのことすら忘れてしまう。何も遠景だけを見ろというわけではないけど、近景は意識せずとも勝手に視界に入ってくるものだから、遠景を意識的に見ようとするくらいで丁度どちらもバランス良く摂取できる感じになると思う。

色々な生活があるのを分かった上で、その様式を真似たり真似なかったりするのは自由だ。僕の好きなカスタムロボで言えば、新たなパーツを手に入れたとして、そのパーツを使うか使わないかは好きにできる。試してみて自分に合わないなと感じたら使わなければいいし、でもやっぱり後から使ってみたいなと思った時には使ってみればいいし。カスタマイズの幅が広がって悪いことはない。レイフォールガン「だけ」持ってるのと、レイフォールガン「も」持ってるのとでは全然違う。
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